(旅エッセイ)開拓の土地にて自分のルーツを探る旅①「当たり前」という幻を想う。

令和も6年になり、思い立って北海道へ来ている。さらに自分を受け入れるために、そして潰されそうな才能を守るために。

あんなに懐かしかった札幌駅に着いた時、怖くて前を向いて歩けなかった。本能でこれから受け入れるべき運命が分かるからであろう。

天命を受け入れてから、旅に行く勇気がなくなっていた。自分の世界での「当たり前」を半分ほど出しただけなのに、周りの態度が変わっていくのが分かるからである。

世間では「常識」といった言葉がよく飛び交うけれど、誰もその言葉の脆さに気付いてはいない。「常識で分かるだろう」・「なぜ当たり前のことができない」そう言ってハラスメントは今日もどこかで起きている。

会社員をしているとき、常々疑問だったことがある。ダイバーシティを高らかに謳うのに、社員の目は死んでいるからである。生きている目をした社員は少ない。海外に少しだけいるぐらいだろうか。悲しかった。苦しかった。

明日会う予定の大切な3人と日曜会う1人は、それぞれ特別な才能を持っている。時代の影で、「生きられなかった自分」を抱えて生きている人たち。美しく悲しい守るべき宝物である。

思うに、我々は心の中に「生きたかった自分」と「生きることを許されなかった自分」の2つの自分を持っている。

時間の概念でいうと過去と現在とでそれぞれ2種類の自分を我々は抱えて生きている。過去は前述のとおり、現在では「こうありたい自分」と「こうあるべき自分」の2種類の自分を持つ。

世代間コミュニケーションはなぜうまくいかないのだろうか。それは個人個人が持つ「当たり前」の定義が異なることに他ならない。「歴史は繰り返す」というけれど、なぜ考えることが特徴のはずの我々は、いつも学習せず同じことを繰り返すのだろうか。

釧路湿原で見た葦のほうがよほど考えて環境に適応している。私は悲しい。今日蔓延るダイバーシティという言葉の影で、今日もたくさんの人が泣いている。

歴史を学ぶことは何故大事なのだろうか。ただ知識をつけるためではない。新しい時代を切り拓くためである。繰り返されてきた歴史の本質を捉え、前へ前へ、外へ外へと世界を広げるためである。

いつからこんなに人は「自分の言葉」で物事を話さなくなったのだろうか。いつから学歴で人は裁かれるようになったのだろうか。私は悲しい。学歴がないからと、優れた才能を諦める宝物たちが世の中にはたくさんいるのだ。

「当たり前」とは移ろうものである。自分が生まれ育った国の歴史を、自分が勤める会社の歴史を、その本質をしっかり見てほしい。なんのために日本史と世界史はあるのだろうか。社史とはなんのためにあるのだろうか。

これまでの時代において、どんな人がどんな想いで社会を支えてきただろうか。今の私達は先人達の努力のうえに暮らしているにすぎない。「今の自分」・「今の社会」にだけに囚われると、人は驕りいずれ戦争が起きる。私たちは、大きな銀河の中に存在する実に小さな星屑なのである。生かされているただの生命体なのである。

昭和の頑固親父はなぜあなたの自由な価値観を認めないのだろうか?親父は分からずやなどと子供のように拗ねずに、親父が時代の何を背負って生きてきたか考えたことはあるだろうか。母親でも構わない。私達は自分が選択して得た環境以上に、生まれながらにたくさんの「当たり前」を背負っている。

経営学を学んだときに、心理学者マズローが提唱した欲求5段階説というモデルを知った。人の欲求はピラミッド型で5段階に分類できるとされている。

土台となるのは「生理的欲求(生命維持の欲求)」であり、次に「安全の欲求(安心して暮らしたい欲求)」、「社会的欲求(集団に属したい、家族や仲間が欲しいという欲求)」、「承認欲求(他者から認められたい欲求)」、最後に「自己実現欲求(自分のエゴを超え、社会を良くしたいと思う欲求)」である。

これは皆が陥るある種の罠であるが、心理学だけでは心のことは分からない。私たちの心は多面体であり、体とも密接に関わっているし外部要因の影響も非常に受けている。つまり、学際的な観点で本質を突き止めない限り、完全な治癒はありえない。

本質を捉えるためには、ひらめきと直感力が必要である。

私が思うに、ひらめきとは、脳内にある情報の海から、問題解決に必要なものを瞬時に取り出し組み合わせたうえで言語化する能力を指す。

思うに直感力とは、瞬時に目の前の事象から情報を感じ取り、高く広く深く分析したうえで本質を捉え言語化する能力を指す。

「鳥の目」・「虫の目」・「魚の目」というけれど、物事の本質と向き合うには1つ足りない。足りないのは「海の目」とでもしておこう。海のように深く下から見つめる目もないと、物事の本質(=奥行き)は永遠に掴めない。

先人達の知恵にあやかって、私は現代と将来のために1つモデルを提唱したい。それは、「本当の意味で自分達のルーツを学び、悲しい歴史を繰り返さないためのモデル」である。

更地から空港ができるように、物事ははじめ0から始まる。戦争が起きれば私達は飢えをしのぐことしか考えられないだろう。戦争が終われば、人々は恐怖から解放され、安心を求めはじめるだろう。より安全な社会になると、社会はもっと豊かになろうと頑張り始める。人は皆生まれながらに1人である。その孤独を感じ始めるほどに安心な世になったならば、「繋がり」を求めて家族や仲間を求め始めるであろう。家族のため、皆のためにがんばった世代をよく知っている。世間のために闘える勇気ある人達。

人はいつも欲深い。皆のために頑張ってきたはずが、やがて自分が1番になりたいと望んでしまう。出る杭は打たれるというけれど、これはいつの時代にできた言葉だろうか。出過ぎた杭は打たれないというけれど、本当であろうか。私は両方とも普遍的な考えとは思わない。

今日目の前にある「当たり前」は本当に一瞬で崩れ去るのである。その苦しみは耐えがたく言葉では表現し難い。どれだけ一生懸命積み上げたものも、実に脆く崩れ去るのである。諸行無常という言葉の意味を札幌で反芻することとなった。

あなたの「当たり前」はどこから来ているだろうか。

東ゆう

▽真のダイバーシティを提唱するうえでのベースモデル(仮)