(家族についてのエッセイ)心からのごめんねが欲しくって。①「幼稚園から小学校へ」

こんにちは!心理カウンセラーの東(あずま)ゆうです。

私には、大切なカウンセラーの同期がいます。今日は、そんな同期の1人であるフミくんとコラボしまして、家族についてのエッセイを書きたいと思います!

▽同じ九州出身だったり、何かと共通点が多いフミくんです。

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こちらのエッセイは、ずっと書くことを躊躇していたものです。恋愛や仕事での悩みの根源がまさか「母子関係」とは気付かず、トラウマ級だと最近知ったばかりの私。

普段ブログを通して自己開示することももちろん怖いのですが、母子関係は過去最大級に怖いことシリーズかもしれません。

でも、カウンセリングを通して色んな方々と接していますと、幼少期の経験がその方の生き方にもたらす影響は大きいなと感じまして。苦労自慢等をするのが大嫌いなので、そのようなつもりではありませんが、参考になればと思い書くことを決めました。

※家族関係でトラウマがある方は読まないことをおすすめします。

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トラウマとは自分とは縁遠いものだと思っていたけれど、案外身近だと34歳の終わりが近づく土曜日に知った。私は母との関係においてとんでもないトラウマを抱えているらしい。

記憶とは不思議で、「忘れた」と思っていても実は「どこか」に存在している。思い出したくないと強く思う記憶ほど蓋をしてしまうのかもしれない。カウンセラーの同期達の前で初めて師匠のカウンセリングを受けながら、そんなことをじっと感じていた。

『嫌われる勇気』という本を読まずとも、自分の恥部をさらすことに、怖さはあれど抵抗はなかった。これは私が勇気があるからではない。私という人が強烈に「自己否定をしている人」だからである。

いつからだろうか、自分は「なんのとりえもないでくのぼう」だと思っていた。たぶん小学校からだと思う。女子大付属の幼稚園を卒園後、カトリック系の小中高一貫校の女子校へ入学した。この学校に入るには、小学校受験が必要である。

他人と比較したことはないけれど、私は記憶力があるほうかもしれない。35歳になった今でも、幼少期のことは割と覚えている。

これは何歳の記憶だろうか、幼稚園時代だから3歳から5歳とかそのくらいだろうか。幼稚園の時、母は優しかった。手先が大変器用で美的センスにも恵まれている自慢の母だった。キルティングで幼稚園のバッグやリュックを作ってくれた。母が作ったものは子供心に可愛くて、身に着けるだけでわくわくしたものである。

父は温厚で優しく大好きだったけれど、日付をまたぐまで働くハードワーカーであったから、必然的に幼少期は母と過ごす時間が長かった。小さいころから家族が大好きな私は、1人で寝ることが嫌いだった。

特に冬などは、家族皆で川の字で寝るほうが安心したものである。母も父もすごく優しかった。冷え切った私の足を、自分の足で挟んで温めてくれた。子は親からの無償の愛をいつだって求めている。心がぽかぽかするものだから、何度もわざと足を外に出して冷やしていた。

私が家族から受け取った「愛」の記憶は、幼稚園を境に高校までぷつんと途切れている。小学校~高校までは愛された記憶が全くなく褒められた記憶もない。ただあるのは自分をただただ否定され続けた記憶だけである。

あれは小学校受験の時だっただろうか、優しく美しく自慢だった母が「鬼」に変わったのは。

カトリック系の学校では、校長先生はシスターであった。小学校受験は、親子で受ける面接があった。優しそうなシスターで、子供心にほっとしたものである。面接部屋を出てすぐ、私は頑張った自分を褒めてもらいたいと思った。

「のどがかわいちゃった、ジュースを買って」と母に笑顔でお願いをした瞬間に、母が見たこともない鬼のような顔をしていた。「まだ会場の中なのに!みっともない!」と思いっきり怒られた。どうしていいか分からず困惑する私を連れて母は天神へと向かった。ジュースなんて飲めなくてもよかった。ただ、よく頑張ったねと褒められたかっただけだった。

天神の街中で、人がたくさんいる場で母は大きな声でヒステリー気味に私を怒鳴った。何と言われたかは心の蓋が閉じていて思い出せない。たぶん、あんたのせいで落ちたかもしれない!とかそんなセリフだったように思う。

怖くて心細くてたくさん泣いた。置いて帰ると言われたことも覚えている。凄く怖かった。このエッセイを書く今も涙がとまらない。1人ぼっちになるのが怖かった。

東ゆう