(家族についてのエッセイ)心からのごめんねが欲しくって。②「小学校とキリスト教」

人の記憶とは実に興味深い。さっきまで全く存在がなかった過去の記憶達が、エッセイを書いたことを機にひょこひょこと心の奥底から顔を出し始めてくるのである。

歯医者での治療中、思い出された内容があまりに辛く、涙がとまらなかった。目の上にそっとかけられたタオルがありがたい。そして私はカメレオンになれる人である。先生が治療終了を教えてくれた時、満面の笑顔を自然と作れてしまう。会計後トイレで号泣しているのが能面をとった私だ。

カメレオンにはなりたくてなったわけではない。過酷な環境を1人で耐え抜いた報酬がそれだっただけである。苦労自慢をする人を見ると、虫図が走る。でも、羨ましい。

人に言えるほどの苦労だったらどんなによかっただろう。人に言うとみじめで死んでしまいそうになるこの過去を隠すためなら、千も万もの面を作り被り続けられる。そうやって、自分を1人守り続けてきた。

私はこの世から宗教など全て消えればよいと心から思っている。宗教とは実に恐ろしい。日常と隣合わせであるから、自然と教えが心に染みこんでしまうのである。

小学校はキリスト教だった。毎日毎日お祈りをとなえる。「父と子と聖霊とのみなにおいて、アーメン」今でもそらんじている。「天にまします我らの父よ、願わくはみなの尊まれんことを、みくにの来たらんことを・・」さわりの部分も未だに覚えている。

信者を冒涜したい意図はないが、私はやはり宗教のもつ二面性が好きになれない。表向きでは人類を救うだのという耳障りのよいことを掲げるくせに、戦争の原因になるのは宗教だったりする。人々を希望に導く強さを持つと同時に人々を破滅に追いやる暴力性を持つのもまた事実である。

神のもとにみな平等というくせに、やたらとカラフルなロザリオが売られていたり、マリア様の絵がついた指輪が売られているのもよく見ていた。ハート型のロザリオが欲しかった日が懐かしい。母にねだって断られた日も懐かしい。

宗教色を持った学校では、必ず宗教の時間がある。アニメを見たり、子供に伝わりやすい教材が案外揃っている。いつも退屈であったから、だいたい目も心も閉じて過ごしたように思う。モーセの話よりも、『かいけつゾロリ』や『わかったさん』シリーズの方が好きだった。

人はみな生まれながらにして罪深いという教えが染み込んだ結果、私は自責思考となっていった。罪深いからこそ、人のために動き神様に赦されようという原罪思考は、心理学にも反映されていると感じる瞬間がある。

本当に私たちは皆生まれながらにして罪深いのだろうか?今思えばそんなはずはない。私たちは特別ではない。地球や宇宙から見れば、他の動植物と変わらぬ存在である。

幼稚園は給食だったけれど、小学校からはずっとお弁当だった。共働きで頑張る母は、毎朝早起きしてお弁当を作ってくれていた。今思えば申し訳ないことをしたけれど、私は母に冷凍食品は嫌だと言ってしまった。今の若者は知らないだろうが、当時の冷凍食品はとても食べれたものではなかった。

母のおにぎりはいつもどこか化粧品のかおりがした。私はそれを口紅のかおりだと思っていた。そのかおりがするおにぎりがいつも大好きだった。たまにしょっぱい卵焼きも大好きだった。子供は愛と希望を見つける天才である。その時既に母は人から鬼へと変化しはじめていたけれど、私は平気だった。

私立の小学生は、皆遠くから通学していた。福岡の小学校だけれど、下関から通っていた子もいたように思う。一番近い子で隣の駅に住む子だった。当時は社宅に住まいだったから、近所には子供がたくさんいた。

弟は市立の小学校だったからいつも友達に囲まれていたけれど、私には友達がいなかった。作り方も分からなかった。孤独だったけれど、毎朝父親と最寄り駅まで一緒だったから、寂しくはなかった。父の手と母のおにぎりがあれば、怖くはなかった。

東ゆう