(旅エッセイ)天命を知り受け入れる旅③「強烈なテーマを放つ土地との出会い」

今日は旅の最終日。これからとある友人と山形にある山寺と宮城の松島へ行き関西へ戻る。昨晩牛タンを囲みながら話していたら、もうすぐ50代になるというので驚いた。世の中にはたくさんの才能が溢れているけれど、その中でも突出していると特に孤独を感じやすい才能があることを私は知っている。そのひとつが頭の回転の速さだ。

カリスマ性等はまだいいのだ、人が勝手に好意的に引き寄せられるからそこには人との繋がりが生まれる。でも頭の回転の速さは違う。本人が自分らしく話せば話すほど周りが全くついていけず「変人・奇人」のような扱いを受け本人もそう思う傾向にある。

「変人・奇人」と思われつつ愛されるような人は、大きな優しさと孤独を抱えた人だと思う。そんな人はきっと私と繋がり他愛のない話をしながら孤独から解放されている。千葉の友人は私と話しながら、「話題はなんでもいいのよ」と言っていた。今なら何故そう言うのかがよくわかる。話題はなんでもよく思いついたままでいい。ただありのままの自分に戻れる空気を感じられるなら、彼らは自然にその空気を吸って自分で自分を解放していくから。

昨晩初めて彼の孤独を見た時、気付くのが遅くなってごめんね、と思った。彼はずっと真の意味での私の理解者の一人だったと気付いた。この旅を引き寄せてくれた大切な人。真の理解者といると私も幾ばくか孤独から解放される。今日これから2人でどんな話をしながら旅をしようか。そうだ、話題はどうでもいいのだった。

人生を長い旅と捉えるのであれば、私は転勤等を含めて色々な場所へ行った方かもしれない。「土地」というものは不思議なもので、旅をしているとたまに強烈なテーマを訴えてくれる土地があるのだ。自然と導かれる土地もあれば、誰かに導かれる場合もある。

東北の場合、一昨日友人になった方と六ヶ所村の話で盛り上がっていたことがきっかけだった。私が東北は岩手や仙台に行くというと、しっかり東北を見てほしいと訴えてきた。そして「岩手は文豪の生まれる場所だから絶対に行った方がいい」と言う。そう言われると妙に納得してしまい、毛越寺の後に急いで盛岡駅へと向かった。夕方の17:00もすぎて外は真っ暗である。でもここに何かヒントがあると思い調べた。ピン!ときた「もりおか啄木・賢治青春館」というところが17:30まで空いているらしい。たぶん、ここだ。慌ててタクシーにのり、閉館2分前に滑り込んだ。

東北の人が持つ優しさは独特である。そしてこれは私が北海道で4年過ごしたから気付けるものだと直感した。厳しすぎる北国の冬を何年も乗り越えた人だけが分かるような独特な優しさが感じられるのである。

さて1人しかいない館内でじっくりパネルを見て回った。初めは啄木、最後に賢治である。賢治コーナーを見ていくと、1つのパネルで足が止まった。「生徒諸君に寄せる」という部分である。賢治が盛岡中学の生徒に寄せた文章が綴ってあり、読むと今の私と目指すところが全く一緒であった。そこで初めて孤独から解放されたとともに確信した。次なる私の人生のヒントはここ東北から見つかるに違いない。

東京は「比較競争の中で孤独を自覚し向き合う場所」、その次に行った北海道は「大自然をもって孤独を手放し、大きな包容力のもとに癒され正しい繋がり方を学ぶ場所」だった。そしてここ東北はおそらく「内なる自分の表現方法を学ぶ場所」である。

呼ばれれば呼ばれるままに、必要だと感じれば感じるままに、自然体の私で旅を楽しんでいきたい。世の中には、私を待っている人がいる。理屈ではなく本能でそう思う。次はどんな人に会えるだろうか。わくわくが止まらない。

続く

東(あずま)ゆう

平泉駅近くの芭蕉館で食べたわんこそば。九州人好みのつゆだった。