(旅エッセイ)天命を知り受け入れる旅⑥「師匠と私(花に学ぶ)」

大阪へ戻ってもう2日が経ったというのに、何だか使命感に駆られてこのエッセイを書いている。普段ばらばらになりやすい頭と心が繋がった時の爆発力は恐ろしい。両方が早く書けと訴えてくるから、どんなに書いても疲れず言葉が湧いてくる。私はたぶん、今発している言葉がたくさんの目覚めに繋がると根拠もなく確信している。

千葉での夜が忘れられない。何か凄く大切な気付きがあったのに、適切な言葉が見つからないまま東北へと向かい、答えはすべてそこにあった。来春カウンセラーとして独り立ちをしたら、私はきっと東北へ住むだろう。今はまだ出発の時ではない。ここ関西には、「周りを気にせず個性を解放する」テーマが残っている。私はまだ目覚めたばかりなので、思い切り今を感じ楽しみたい。旅立ちの日はきっと自然にやってくる。

もう9年程前だっただろうか、千葉の友人と工事現場で出会った。 たった3ヶ月しか机を並べておらず、ほぼ会話もしなかったのに何故か惹かれて今日に至る。自分の心に正直に生きていくと「特別な出会い」を感じることがあるだろう。本能でそんな出会いをもし感じたら、迷わず大切にしてほしい。話題は探さずとも良い、自然に出てくるものだから。

彼女と出会ってしばらくして、丸の内オアゾ丸善で運命の師匠に出会ってしまった。花人の川瀬敏郎による『一日一花』という本だった。どきどきしながら立ち読みすると、毎日先生が魂を込めて選んだ器と花の写真が載っている。今まで見たことがないような、強烈な生命力を感じる写真だった。

若々しい花も枯れた花も、折れた花も曲がった花もあったが、皆力強く凛として、それでいて全てを受け入れるような、祈るような包容力を感じさせる花だった。自分が心に纏いたい日本の美しさだと直感し、すぐに教室を探した。

2~3年だろうか、二子玉川で開催される先生の講座を母と受け続けた。北海道転勤後もしばらく通った。実際のお花を生徒が扱うことは基本的にない。教室に入ると、予め先生がいけた花が飾ってある。一礼をしてから花を見た後は、先生から「花」に対する考えを4時間以上聞き、最後に実演の様子を見る構成だった。

物凄く口が悪い先生だったけれど、実にたくさんのことを学んだ。一番印象的だったのは、「いけばな」と「たてはな」の違いである。先生曰く、神に捧げる花をたてることを「たてはな」といい、美しく見えるように花の形を整えることを「いけばな」というのだそうだ。

川瀬先生が目指していたのは、野に咲く花を、あたかも今摘んだばかりのようなみずみずしさを感じさせるように、たてるようにいけるというものだった。先生の花が持つ迫力は凄まじく、美しく神々しい。生半可な覚悟であの講座を受けてしまうと、逃げ出す人がたくさんいるだろう。

先生の花に対する考えを聞いて、私は自然に対する深い敬意であり人間に対する深い愛だと思った。自然に生かされながら、私達は今を生きている。世の中に、自分と全く同じ個性を持つ人は存在しない。体や心を痛めた人がいたとしても、外見が人と異なる人がいても、自然(神)の前には皆平等で美しい。そんな教えを先生からは学んだ。先生の手にかかれば、どんな花であっても美しく存在感を放ってしまう。

ある日、選抜を通った20名程だけが受けられる「実技講座」に私だけ行けることになった。花材は事務局側でも準備するが、自前の花を持ってきても良い。会場では、先生が所蔵する様々な貴重な花器を自由に選び使って良いことになっていた。

都内で寮暮らしをする私には花を摘んでくる術が思いつかず、銀座にある"野の花司"というお店へ和の花を求めて行ったが、何を選べばよいかも分からず、選べないまま講座へ向かってみた。

教室へ行ってすぐに後悔した。自前の花を持たないのは私だけであった。皆大小様々な花を手にして席に座っていた。最後に入室したのも私であったから、運悪く先生の目の前の席に座ることになった。

実技講座では特に講義はなく、すぐさま好きに花をいける時間となった。花材は準備されていたから、器を探しに行った。花器は何も陶器だけではなく、アフリカの籠のようなものまで様々だった。皆すいすい選んでいくのに私だけはいつまで経っても選べない。先生の助手が私に近づき「自分のない人は何を選んでも同じだから、これを使ったらいい」と言われ花器を渡された。帰りたかった。

席について花ばさみを手にとるも、「誰か」に選ばれた花と器ではどういければ良いのか全くわからない。苦しかった。わからないままいけるうちに、先生による講評が始まった。「お前の花は死んでいる」と言われた。もう一度やり直すも、またしても私だけが「なぜこの吾亦紅の葉っぱをちぎった、お前の花は死んでいる」と言われた。帰宅後久しぶりに熱が出て寝込んでしまった。資格試験で自分を追い込んでも平気だったのに。周囲にはリアル版ケンシロウだと冗談風に語ったが、内心かなりショックだった。※吾亦紅(ワレモコウ)は花の名前である。

実技の時先生が言っていた、「" 花 "とは" 自分 "である」という言葉が忘れられない。先生の元に通う弟子たちは、毎日朝から晩まで「花(=自分)」と向き合うという。今の自分を花を通して表現すると理解し、先生の花の迫力や美しさの源も理解した。

世間にはたくさんの魅力的な花があるけれど、私は椿のように生きていきたい。芍薬のように大きく華やかではないけれど、そっと凛と咲いているような椿でありたい。さてあなたはどうだろうか。

続く 東(あずま)ゆう

▽師匠の考えを学びやすいと思われる本