(家族についてのエッセイ)心からのごめんねが欲しくって。⑤「学問的視点で考える、親と子」

当エッセイは、「家族関係と人生への影響について、様々な視点で考えること」と、「人の才能は人生の光と影の両面にあると伝えること」を目的に書いております。

※人によっては読んで過去のトラウマを思い出す可能性があります。エッセイのタイトルを読んで、各自ご判断のうえ読んでいただけると嬉しいです。

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「あなたのために言っているのよ」という言葉ほど無責任な言葉を私は知らない。

「君は完璧主義だね、真面目だね」と人の生い立ちや気持ちも推測せずに伝えてくるような、無能な会社の上司や先輩ほど無神経な人を私は知らない。

「完璧主義」や「真面目」と言われて傷つく世界中の人たちに私は伝えたい。理由もわからず「ちゃんとしなきゃ」と悩む世界中の人たちを私は強く抱きしめたい。

カウンセリングを通して、私は色んな人生を抱きしめ心から応援し続けたい。ある時は母のように、またある時は父のように、姉のような兄のような時もあっていいだろう。

長年の慢性的な悩みへのヒントは、ゴーギャンの1枚の絵が教えてくれた。

我々の苦しみはどこから来たのだろうか?我々「こども」とは何者だろうか?

がんじがらめの頭と心を紐解く鍵は、心理学という学問が授けてくれた。

心理学において、「投影」という考え方がある。人は自分の鏡という言葉を聞いたことがある人もいるであろう。「投影」とは、外の世界=自分の心の世界を映し出したものであるという1つの視点である。

「投影」をベースに人間関係を見ていくと、人が誰かに好意を感じる時というのは、相手の中に自分が持っている魅力や大事にしている価値観を見つけている状態だそうだ。また、人が誰かに嫌悪感を感じる時というのは、相手の中に「自分が嫌っている自分」や「自分が大事にしたかったけれど否定されてきた自分」を見つけている状態のようだ。

1つの神を信じる危うさを知り令和に生きる私は、物事は多面的に見ないと相互理解に繋がらないと強く感じている。世の中にはびこる「当たり前/常識」もまた見方を変えれば一神教也。

なぜ世の中が変わらないのか?変えられないのか?唯一神を裏切ってはバチがあたるとでも思っているからではないか。無神論者の私は、好物のチョコレートをかじりながらこうぼやく。各宗教のいいとこ取りでもすればいいのにと、無責任にぼやいてみる。

さて話を戻して、心理学の視点から親子関係を見てみたい。

投影の概念を利用して、私なりに親子関係を考えてみたい。

人は、生きていく過程で「生きたかった自分」と「生きられなかった自分」の2つの想いを抱えていくように思う。前者は「希望の光」であり後者は「涙と影」であろう。

光あって影が存在するように、影あって光は存在を認識される。光と影とは人生という1つの背骨を軸に、常に隣り合わせである。そして光の存在は時として人を涙の世界へと誘い込み、影の存在は時として人を笑顔の世界へと導くものである。

チョコレートを再びかじりながら、私は考えを深めてみる。

時代や土地が持つ価値観に抑圧されてきた親たちの「生きられなかった自分」を子は代わりに背負っているのではないか。

時代に抑圧された親たちが守りたかった「生きたかった自分」を、「期待」という看板の名のもとに子は背負わされているのではないか?

「期待」を異常なほどかけられ続けてきた私からすると、「期待」の中には自分と同じ想いをしてほしくないという親からの深い愛がある。同時に、自分の無念を晴らしてくれという悲しい継承の文化がある。

どれだけ本人が頑張っても、生まれた国や時代は選べない。時代や土地に根付いた価値観が持つパワーは恐ろしい。そこから生まれていく「その当時における常識」という神の名のもとに、人は皆意図せず縛られ洗脳されていく。

我々は一体どこへ行くのだろうか。

悲しみの連鎖を断ち切るためなら、粛清のときに備え私は全情熱をかけて努力しよう。

時代の連鎖が生み出す「歪んだ当たり前」の影響をうけて、「生きづらさ」を感じる人たちの大切な個性を守るために、私は今医師を目指している。

受験勉強で生物学を学ぶにあたり、ふと光をみる一文を見つけた。

「一卵性双生児は、ほぼ同じDNAが含まれているが、全く違う人へ成長していく」、という一文である。

学問という技をもって、人々の心と体を希望に導ける医師を目指したい。

東ゆう