(旅エッセイ)開拓の土地にて自分のルーツを探る旅⑩「生きるとはなにか」

卯月三日。雷乃発声(らいすなわちこえをはっす)

春の雨は美しい。

家の前に咲く椿の葉にしたたる雨粒を眺めると、心が慰められる。

涙とは、心の雨のようだ。

ある時は雷を伴う激しい雨となり、ある時はやわらかく静かなものとなろう。

鷲田先生の本の冒頭部分に、"わたしは「いない」より「いる」ほうがほんとうによかったのか・・・。"と書いてあった。胸が苦しかったがどこか安堵した。

ずっと考え続けていたことだったからだ。

わたしという人との出会いをきっかけに、深い悲しみを知った人がいる。人として未熟ゆえに、知らなくてよい苦しみを知った人がいる。なんど後悔したことだろう。

一方で、わたしという人を必要としてくれる人もまたこの世にはいるものだ。人として未熟なわたしを愛してくれる人もいる。なんとありがたいことだろう。

今年に入ってからのわたしは、実に35年分たっぷりと泣いているように思う。

表面張力まで水でいっぱいになったコップは、空にせねば新たな水は入らない。

わたしは今、変わろうとしているのであろう。雨降って地固まるように。

正直でいると、自分の心と周囲の愛が、わたしを進むべき方向へ導いてくれるものだ。

孤独を恐れるわたしはこう思う。

ー変わった先に、心から愛する人は側にいてくれるであろうか。

心の中の悪魔はわたしにこう呟く。"そんなものは幻想にすぎない"、と。

心の中の天使はわたしにこう呟く。"愛の力は幻想などに負けぬ。信じよ"、と。

3月の末に、かかりつけの脳外科へ行き、先生に医学部編入を目指す旨を伝えた。

先生の顔つきががらっと変わり、生い立ち等を語り始めた。

「目の前にある壁を越えれば、その経験はあなたの糧になり、盾となる。越えてみせろ。盾を持て。」と先生は私を激励した。

胸が熱くなった。

いつからだろう、ずっと生きる意味がほしかった。

小学校の頃からずっと、自分は怒られてばかりのダメな存在なのだ、生きていると迷惑をかける存在なのだと思っていた。お金だけ無駄にかかる、良いところなど何もない存在だと思っていた。

でも、こんなわたしでも、1つくらい生きる意味があっていいのではないか。

そう考えて、考えて、迷い、惑い、それでも進み、今に至る。

微分がちょっとの変化を表現し、その変化の積み重ねを積分で表現するように。

人生とは、ちょっとした偶然の積み重ねで出来上がるように思う。

振り返ると、若い時はなぜあんなことをしたのだと嘆くこともあれど、

その時の自分にはきっとそれしかできなかったのだろう。

人の時間は有限である。

明日は当たり前に来ると思っていても、突然奪われることだってある。

一日一日を大切に生きていきたい。その時の最善を尽くして過ごしたい。

詩や歌に興味を持ち、今、中国の古典として杜甫を読んでいる。

先ほど美しい詩に出会った。「春夜 雨を喜ぶ」という詩である。

心から湧き上がる感情が、清流のように迫ってくるような杜甫の詩がとても好きである。

杜甫曰く、よい雨はその降るべき時節をちゃんと心得ているようだ。

わたしの心の雨もまた、降るべき時だからこそ降っているのであろうか。

わたしは思う。生きるとはあがくことなのではないか。

幸せを願い、あがくことではないか。

時に小さく、時に大きく、あがくことではないだろうか。

答えは分からないままでよい。

すぐに分かってはつまらないのだから。

東ゆう

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