当エッセイは、「家族関係と人生への影響について、様々な視点で考えること」と、「人の才能は人生の光と影の両面にあると伝えること」を目的に書いております。
※人によっては読んで過去のトラウマを思い出す可能性がありますのでご注意ください。
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⑨ー1:大阪の母
昨晩、大阪の母から連絡がきた。学生時代百貨店でアルバイトをしていた時からずっとお世話になっている女性である。彼是約15年間、細く長く繋がってきた、母のように大切に想う人である。
長年勤めた百貨店を退職するようだ。そんな連絡をもらえ、じんわり心が熱くなった。
私は心を込めたお付き合いがしたい時、必ず手紙を書くことにしている。字が汚いことが難点だが、メールやLINEが普及する今、手書きは心を伝えやすいと思うからである。
大切な人を想って便箋を選ぶ時は何より楽しい。手紙を書く時は、いつも相手の状況や雰囲気を想いながら言葉をじっくりと選ぶ。幸せなひとときである。
お花は何色にしたらよいだろうか、小物も贈りたい。
大好きなお母さんが晴れやかな気持ちで卒業できるのであれば、なんでもしたい。
⑨ー2:小学生時代の影の記憶と私の強み
小学生時代、私は塾という「初めての居場所」を見つけた。
身の安全が保障される場所も大事だが、心が帰る場所もまた重要ではないだろうか。
母は、私の勉強の出来が悪いたび「やる気がないやつは、塾など辞めろ!!」と怒鳴っていた。そのたびに、必死に土下座をしたように思う。
「お願いします、どうしても塾に行かせてください」と何度もお願いをした日が懐かしい。
無駄なプライドは捨てろとよく言うが、小学生時代をもって、一部の無駄なプライドは捨てたように思う。心の居場所を守るためなら、土下座など安いものだった。
塾の教科書を真っ二つに破られたこともあったけれど、セロテープがあれば問題ない。
皆に見られるのは恥ずかしかったけれど、居場所がなくなるくらいなら耐えられた。
また、誰とも遊ばずひたすら好きでもない勉強を頑張った経験も今に生きている。
大人になって周りをみると、「やりたくないことを頑張れる人」の少なさに驚くばかりだった。
経験上思う。どれだけ自分がやりたいことに取り組んでいたとしても、その中にやりたくないことと向き合わねばならない瞬間があるものだ。
そこで踏ん張らねば、目標はいつまで経っても達成できないのだが、踏ん張りが弱い人が多くいつも驚いてしまう。年齢は全く関係がなく、人生経験だけが物を言う。
年の功とはなんであろうか。言い訳だらけの根性なしが大嫌いな私である。大した努力もせずに苦労自慢をする人には哀れみしか感じない。そんな承認欲求など早くどぶに捨て、さっさと努力して見せろと言いたい。
調べたところ、人間は24本の背骨(=脊椎)を持つらしい。首や胸、腰等の計24本だそうだ。
小学生時代の体験は、「私」という小舟の背骨のうち、腰椎を構成しているように思う。私が自分らしい道に突き進むうえでの「要」である。
⑨ー3:「影」について考える
苦しみと向き合うことは、一見修行のように見えるかもしれない。だが、実は宝探しの時間でもあることを忘れてはならない。
「苦しかった理由」はなんであろうか。そこにどんな想いが隠れているであろうか。
「人」・「社会」・「自分」の3つの視点をもって、苦しみについて考えてみてほしい。
対人関係であれば、誰にどうしてもらえたら嬉しかったであろうか。
対社会であれば、社会がどうであったら楽しかったであろうか。
対自分であれば、自分がどうであったら幸せだったであろうか。
そこにはきっと、生きるうえでのあなたらしいテーマが隠れているに違いない。
そのテーマは、自分や人を、ひいては社会を救う光となるであろう。
心は時間の流れ方が日常と異なるから、「自分らしさ」に気付くまでは、時として時間がかかったように感じるものである。
「心の四季を感じてほしい」、と日本を愛する一人として私は思う。
心の中が厳冬の人もいるであろうが、季節はめぐるものである。
あなたはどんな「春」が好きだろうか。
世界中の人達が、雪解けを感じそれぞれの春を楽しめるような時代の到来を、心から願うばかりである。
東ゆう