(旅エッセイ)開拓の土地にて自分のルーツを探る旅⑨「イランとわたし①」

⑨ー1:出会ってきた偶然を拾い集めれば「道」となる

私という生き物は、これまでのたくさんの出会いを通して作られている。

なかでも印象的なのは中東との出会いであろうか。

「社会を変えたい」・「時代に合った、皆が生きやすい社会をつくりたい」

そんな情熱を糧に勉学に励む今、イランを思う。

私は、「アルゴ」というイラン革命を取り扱った映画が好きである。

日本を変えるために必要なのは、この映画から感じるような熱ではないかと思う時がある。地政学的リスクを抱える国が持つ、強いエネルギーが必要なのではないか。

将来イランからヒントをもらう日がきっと来るだろう。理由もなくそう思う。

⑨ー2:ペルシャ語を専攻するまで

私は阪大の外国語学ペルシャ語専攻を卒業している。ペルシャ語とは、イランの言語である。元々第一志望だったわけではない。

高校生の時は、第一志望医学部・第二志望が言語だった。

普通、医学部志望者の第二志望は薬学部か歯学部なのだが、私はその2つに全く興味がなかった。

浪人時代のセンター試験で、一番得意だった英語で信じられない失敗をしたことは一生忘れない。生まれて初めて30点も失点し、医学部受験が厳しくなったから文転した。

通っていた高校には、医者の家系の娘が普通に何人もいた。彼女たちには当たり前のように私大医学部という選択肢があったけれど、私は一般家庭の子なので、その選択肢はなかった。でも、親を恨んだことは一度もない。

むしろ、小学校から高校まで私立に通っていた自分をごくつぶしのように思っていたから、大学は私立を避けたかった。

第二志望が言語だったのは、「言語」があれば色んな国の人と出会い繋がれる楽しさを小さい頃から知っていたからである。

小学生低学年頃からだっただろうか。英会話教室や英語塾に通っていた。また、母が留学生と積極的に関わっていた時があったから、私の幼少期は、海外の人と接することが普通であった。

言語といえば外大である。阪大の外国語学部と東外大を迷った。

迷って、詳しくもないくせに司馬遼太郎の母校だからと阪大(旧大阪外大)を選んだ。

さて、阪大の外国語学部にはマイナー言語含め色んな専攻語があり、受験時に選ぶ。

医学部への未練が捨てきれない私は、偶然本屋でハンガリーの医学部へ進学という本を見つけ、前期はハンガリー語にした。

後期は、どうせ学ぶなら人がやったことがない言語をしようと思い、学部紹介を見る中でモスクの美しさに惹かれ、ペルシャ語を選んだ。

それがペルシャ語もといイランとの出会いだった。

⑨ー3:イランへゆく

2011年の2月から1ヶ月間、イランへ行った。確か帰国した翌日に東日本大震災が起きたように思う。

記憶が正しければ、関空からドーハ経由でテヘランへ行き、そこからローカル便でシーラーズという都市へ向かった。ドーハ空港内では頭を隠す必要はないけれど、テヘラン行きの飛行機に乗るその瞬間からヒジャブは必要であった。

イランでは、シーラーズ大学にて口語を学んだ。学習の合間に、観光地にもたくさん連れて行ってもらった。

ゾロアスター教の聖地ヤズド、ピエール・エルメのケーキの名前でおなじみのイスファハーン、ペルセポリス等も行った。夜のスィーオセポルの美しさをまた見たい。

(※スィーオセとはペルシャ語で33、ポルは橋の意)

ああ、現地で美容室に行ったことも興味深く覚えている。

女性専用の美容室だった。その国の文化的背景を知っていれば当たり前なのだが、やはり新鮮だった。

閉ざされた世界にいると、どうしても自分と異なるものを受け入れる力が弱くなるように思う。

日本と全く違う文化を持つイランに行った経験は、一生の財産だと思う。

東ゆう

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